人間観察学会による著作「人生 勝つ人負ける人」からの言葉。
おしゃべりの何がいけないかと言えば、おしゃべりをしている間、人間は思考停止に陥るからである。
これは目からウロコ。
「よく話す人=賢い人」
そんなイメージを持っていたコミュ障からすると、
納得する&勇気づけられる言葉。
「よく話す人=賢い人」?
ぼくは人と話すことが苦手。
だから、よく話す人のことがよく分からない。
そんなこともあって、
ぼくは「よく話す人=賢い人」というイメージを持っていた。
「よくそんなにバンバン言葉が口から出てくるなあ」
「よっぽど頭の回転が速いんだろうなあ」と思っていた。
よく話す人=考えていない人?
だけど、あれってただ思考停止して、
任せるままに口から言葉を放っているだけだったんだね。
ぼくはよく言い間違いをする。
でもそれって、考えながらしゃべってるからかなあ、と思った。
まあ、コミュ障である自分を擁護するようだけどね。
でも、たしかに、よくしゃべる人が会話をしているときによく考えているとしたら、
そんな人が一人の時間を持ったときには最強なんじゃないかと思ってた。
そんな人が自分との対話を始めたら、もう手を付けられねえ!
でも、違ったんだね。
おしゃべりな人とは、
他人と話したい人。
そういう人は自分との対話をあまりしないのかも?
どちらかというと「反応」を楽しんでいるのかもね。
「会話」するのが好きっていうのは、
「相手を理解しよう」というよりも「反応を楽しんでいる」。
そんな節があると思う。
コミュ障は、自分と対話する。
ぼくは、自分が何を考えているのかを知るのが好き。
自分の考えていることを文字として出力する。
それをバーッとやったあとに見返して、
「ああ、自分はこんなことをかんがえていたんだなあ」となるのが面白い。
「自分と対話する」というのはそういうこと。
でも、おしゃべり好きの人は、
その対話をする代わりに他人と会話をしているのかも?
そりゃ、性格的に合わないわけだ。
根本的に違うんだ。
おしゃべり好きは、他人に話すことで頭が整理される。
そうやって次に進められる。
でもさあ、そのおしゃべりにつき合う側にもなってほしい。
ぼくみたいな人にとっては、他人の話を聞いていること。
それ自体がただただ苦痛なんだ。
それだったら自分一人の時間がほしい。
それで、自分と対話をしている方が有意義ってものです。
頭のどこかで、
「コミュ障」は「おしゃべりな人」の下位互換だと思ってた。
でも、実は正反対だというだけで、
どちらが上とか下とかはないものなんだね。
おわり
「会話」は人にとって重要なのは分かる。
でも、本当の意味で他人は理解できないもの。
だったら、せめて自分との対話をして深掘りする。
その思考や仮説建てや検証。
それらを公開することが「アウトプット」として他人の役に立つ。
そうなることを期待しています。
だから、自分はこのままでいいのだ、と思うことにした。
無理に人と話すことをしなくてもいい。
そんな小手先のコミュニケーション術を磨くくらいだったら、
表現を磨く方が自分には合っていると思いました。
この本はそれに気づかせてくれた。
相変わらずこの本は面白い。
だいぶ前に買った本なのに、
今になって自分にとっては輝きを放っている。
こういう遊び心のある本はイイ。
発行年を見たら1999年だった。
ああ、なんかそれっぽいね。