「人を善悪で判断する」
それは普通のことだと思っていた。
人はみんな自分を善だと思っていて。
自分が悪だと思っている人を叩きたいと思っている。
ただ、この言葉に出会いました。
人間を善悪で区分けするなど愚かなことだ。人間は魅力的か退屈かのどちらかである。
これはオスカー・ワイルドの言葉。
なるほど?
そうやって新しい基準を提案してくれるのはいいですね。
①善悪は時代や見方によって変わる?
善悪って何か。
それすらよく分かってないですが。
それって時代によっても違うんじゃないですかね。
または見方によっても違うと思う。
というか、個人でそんなことを追い求めるのは時間の無駄な気がしてならないのですが、どうなんでしょう?
まあ、それが自分の使命だという人もいるのかもしれませんね。
②善悪で人を区別する人は退屈?
この言葉は、善悪以外の基準で人を判断しましょうという。
そういう気の利いた言葉であると同時に。
善悪で他人を判断する人を皮肉っているのかもしれませんね。
そういう人を退屈と言うのですよ、みたいな感じに。
③魅力的な人は、人に注目しすぎない?
魅力的な人。
それってどんな人か。
- 何かに集中している人。
- 何かを研究して熱中している人。
で、そういう人に共通しているのが、個人をどうこう言っている人がいないということじゃないでしょうか。
一般論とかは言うかも。
または心理学とか。
ただ、ある個人に対して攻撃している人。
そういう人は魅力的な人ではなく、退屈な人に区分けされるのかもしれませんね。
おわりに
ということで、「人を善悪で判断するのは愚か、魅力的か退屈かで区分けするべきだ」ということでした。
そもそもぼくのような人に興味がない人にとっては善悪って分からない。
だれでも善と悪を持っている。
その人の一部分だけを見て善悪を判断しているようにしか見えない。
ただ、一方で、魅力的かそうでないかで判断する基準は面白い。
面白ければいい、退屈な人は注目すらしない。
まあ、この言葉の真意は分からないなりに好き勝手に言ったということでした。


