「自分のことを分かってほしい」
そうやって思っていた時期がありました。
「なんで分かってくれないんだろう?」
「ちょっと考えたら分かるものじゃないの?」
そう悩んでいた。
人は話せば理解できるものだと思っていた。
ただ、そんな心理状態から脱したぼくが今思うことは、
心底どうでもいい。
他人なんて関係ない。
人は100%理解し合うことなんてない。
というか、そもそも他人に自分を理解してもらおうと思っていたこと。
今考えるとそれ自体がナンセンスだと思いますね。
①そもそも自分で自分を100%理解しているのか?
今、振り返ってもっとも強く思うこと。
それは、ぼくがぼく自身についてまったく理解していなかったこと。
というか、そうやって自分自身を100%理解している人なんていない。
そうやって客観視できている人はほぼいない。
②自分でも理解できていない自分を、他人に認めてほしいのは傲慢?
自分で自分を理解しきれていない。
それなのに、そんな自分を他人に理解してもらいたい?
それは傲慢というか。
そもそもできない無理難題を他人に押し付けているように思える。
③自己理解をするために必要なことは?
自己理解のために必要なもの。
それは他人を理解する(しよう)とすること。
他人を理解する。
そうすると、自分を理解することにつながる。
自分と他人のズレを認識することができる。
あとは細かく自分を分解してみると自己理解につながる?
自分の好きなものをリストアップして。
それを並び替える。
そうしてできあがるのが価値観のリスト。
そうやっていろいろ自己理解の方法を試しながら、自分を理解することに励みました。
④自分のことが分かったら、他人なんてどうでもいい。
自分のことを理解していく。
その工程は楽しい。
自分の輪郭がハッキリとしていけばいくほど、自分の強みや興味が確定する。
そして、自分がどの方向に進むべきかの指針がハッキリする。
もはやそこまで来たら、他人なんてどうでもいい。
もう自分のことを理解してほしいとも思わない。
そう思ったのは、
- 自己理解が進んだ結果なのか。
- それともぼくのもともとの性格のせいな。
- はたまた人間というのは分かり合えないものだ、と諦めたからか。
それは分からない。
ただ、この頃には他人に理解してほしい願望は消えていましたね。
おわりに
ということで、「自分を分かってほしい」と願っていた自分を振り返るに、、でした。
- そもそも自分のことを100%理解していなかった。
- にもかかわらず、そんな自分を理解することを他人に押し付けた。
それらが元凶な気がしました。
そうやって自分を他人に理解してほしいなら、まずは自分が他者を理解しようとする。
そして、その過程で自分のことも分かってくる。
そういう方法を試してみるのがいいのではないか?と思いました。


